Kのhimaブログ

暇人が気まぐれに語ります。

ワクチンは覚醒剤に似てると思うの

今回は、新型コロナウイルスでも新型コロナワクチンでもなく、
覚せい剤に関する研究を紹介します。
まじめな研究ですが読みやすい文章で、
読み物としても面白い。


以下、引用は
「戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る
政策形成過程の実証研究
西川伸一」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/19952/1/shakaikagakukiyo_57_1_1.pdf
より


はじめに

 覚せい剤取締法が施行されたのは 1951年 7月30日である。言い換えれば、それまでは覚せい剤を所持しようと使用しようと、罰せられることはなかった。今からすると驚きを禁じ得ない。戦後直後の混乱期に蔓延した覚せい剤はその商標名をとって「ヒロポン」と通称され、深刻な社会問題を引き起こした。たとえば、 1949年 11月22日付「朝日新聞」は「恐るべきヒロポン禍」と三段抜きの大見出しで、青少年における覚せい剤中毒者の急増を強く憂慮している。


 ……大日本製薬(現・大日本住友製薬)が「除倦覚醒剤ヒロポン」なる製品名でメタンフェタミン製剤を発売したのは、 1941 年のおそらく 10 月以降のことである。「ヒロポンという名称は、ギリシャ語の Philo (好む) Ponos (仕事)よりつけられたものである」(大日本製薬六十年史編纂委員会編 1957:128)。

 すなわち、覚せい剤の一種であるメタンフェタミンを大日本製薬が商品化した一般医薬品が「ヒロポン」 (Philopon) である。その「ヒロポン」が覚せい剤の代名詞として定着したことについて、同社の社史は「当社としては甚だ迷惑なことである」と記している(同 147-148)。

 さて、『昭和 35年版犯罪白書』は、いわば「国策薬」として創薬された覚せい剤が「前線では強制的に使用されていた」と断定している。1954年 11月 22日付『毎日新聞』は「特攻隊員には出撃前に強制的に注射したものだ」と書いている。強制使用の現場を証言からみよう。

 1945年 1月に海軍軍医少尉として九州に赴任した蒲原宏は次のように述懐する。「夜の仕事が多かった。春に沖縄戦が始まると毎日のように深夜 1時、 2時に飛行機が出た。沖縄まで 3時間くらいだから、朝方に攻撃するためだね。頭がさえるからと、搭乗員に「疲労覚醒なんとか剤」なんて名前の注射を打ったよ。今思えば(覚醒剤の)ヒロポンだったんだな。当時は軍の命令に従うだけだったよ。/戦争末期、出撃機の大半が特攻だった」 (2016年 7月 21日付『新潟日報』夕刊)。 1939年に陸軍薬剤将校に任官した宗像小一郎は「ヒロポンを航空兵、又は第一線兵士の戦力増強剤としてチョコレートなどに加ヘて居たことも事実であり」と追想している(二七会 1992:221)。

 宗像のいうヒロポンを混ぜたチョコレートは、どのようにして作られていたのか。 1945年 2月に大阪・茨木高等女学校に転校したある生徒は、すぐに学校に隣接するプレハブ工場へ勤労動員を命じられた。そこで彼女は他の女子生徒とともに、「15センチほどのチョコレートの棒を 1本ずつ包装し、束ねて箱詰め」する作業に携わった。ある日、それを上級生から強引に食べさせられると、「カーッと体が熱くなった」という。「「ヒロポン(覚醒剤)入りよ。特攻基地に送るの」と教えられた」 (2016年 11月 2日付『京都新聞』夕刊)。

 銃後ではこの女生徒のような学徒勤労動員による工場勤務は深夜に及ぶこともままあった。アジア・太平洋戦争末期に東京・昭島市の昭和飛行機工場へ勤労動員された都立武蔵高等女学校のある生徒は、のちにこう書き綴っている。

「戦局酷しく徹夜勤務が始った 夜半過ぎると決って襲う眠気 ハンドルを動かす単調な作業 はっと気が付くと圧力計が上っている 誰がいい出すともなく飲み出したヒロポン あの小さな気味の悪い黄色の錠剤 でも駄目相棒と相談して歌を唄う」(都立武蔵高女青梅寮生の会編 1974:39)

 錠剤のヒロポンの色がわかって興味深い。もちろん勤労動員の生徒に限らず、軍需工場の労働者や徴用エ員にも眠気覚ましとしてヒロポンが配布された。「奴隷への鞭」の役割を果たしたのである(江副 1954:32)。一方で、大日本製薬は 1942年と 1943年に「売上高の面でも利益の面でも、戦前のピークといえる成績」を挙げている(「大日本製薬 100年史」編纂委員会編 1998:60)。

 敗戦によって、軍が貯蔵していた覚せい剤が大量に市中に出回るようになる。軍という大口納入先を失い、「製薬会社は、「疲労感防止、睡気除去、気力昂揚」などの効能書を以つて大きく宜伝し、在庫品の市場への放出を急いだ」(立津ほか 1956:17) のである。覚せい剤は 1951年までに 23社が製造

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していた(表 2)。


 合法的な薬剤であった覚せい剤が社会問題化していく端緒は、その中毒患者の発生である。それは1946年春ごろから散見されるようになり、同年 9月には東大医学部附属病院神経科に最初の慢性中毒患者が入院している。翌 1947年 7月には都立松沢病院にも中毒患者が入院する(厚生省五十年史編集委員会編 1988:696)。「その症状が精神分裂病に似ている所から最初は区別がつかなかったものであるが、その後その症例が増すにつれてその正体が明かになった」(都立松沢病院 1954:52)。わけても深刻だったのは、多くの青少年が中毒者に含まれていたことである。樋口幸吉・東京医療少年院医務課長によれば、「少年犯罪者で覚せい剤が出てきたのは〔昭和〕廿三年ごろ」という (1953年 11月27日付『東京タイムズ』)。1949年から 1950年にかけては、覚せい剤中毒の青少年による犯罪が新聞紙上を盛んに賑わすようになる。


 ……

 すなわち、この時点で憂慮されていたのは覚せい剤それ自体の恐ろしさではなく、それが青少年に蔓延し犯罪の原因になっていることなのである。

 別の言い方をすれば、大人たちにとって覚せい剤は、いまでいう「ダメ。ゼッタイ。」の危険な薬物であるとの意識はきわめて希薄であった。演芸評論家の吉川潮は、「都会では一部のエリート層を除いて、成人男性なら多少なりとも射っていた。特に芸人、役者、ミュージシャンら芸能人は多くの者が手を出した」と書いている(吉川 2000:279)。芸人については、寄席末広亭の席主・北村銀太郎の次の述懐がある。楽屋にはヒロポンのアンプルが 200本から 300本は常備されていて、「もう打たないもんは一人もいないっていうくらい、まったく一世を風靡したよ」(冨田 2001: 90-91)。

 また、自ら覚せい剤中毒者となった作家の船山馨によれば、製造販売が禁止されるまで覚せい剤は「全国どこの薬局でも、無制限に売っているありふれた薬品でしかなかった」という(船山 1978:60)。

 船山に限らず、流行作家ともなれば覚せい剤に頼って作品を量産していた。 1949年 8月 10日付『朝日新聞』「天声人語」は「戦後派文学、肉体派文学はほとんどヒロポン文学といつてよいほど、ヒロポン中毒の頭脳の中からはき出されたものである」とまで告発した。ヒロポン作家としてまさに一世を風靡したのが、オダサクこと織田作之助である。織田は 1946年 8月 30日から『読売新聞』に「土曜夫人」の連載をはじめる。その重圧と毎日闘うためにヒロポンを射ち続けた。だが、「土曜夫人」は同年 12月 6日の第 96回で打ち切られる。これが絶筆となった。織田は 1947年 1月 10日に肺結核の出血により窒息死した。まだ 33歳であった。覚せい剤のその後の蔓延は、織田の死から人々が覚せい剤の危険性を学ばなかったことを示している。むしろ、仕事に追われる多忙な人間の「かっこいい流行」とみなされる風潮すらあった(船山 1978:61)。

 締切りに追われるという意味では研究者とて同じである。日本評論社から刊行されていた著名な学術雑誌「経済評論」 1946年 4月号から 7月号までと 1947年 2月号、 3・4月号、 5・6月号の合計 7号の裏表紙には、武田薬品工業によるゼドリン錠の広告が掲載されている。表 2に示したとおりゼドリンはアンフェタミン製剤である。同誌 1946年 5月号から 7月号までは「覚醒剤ゼドリン錠」と、1947年 2月号、 3・4月号、 5・6月号の 3号では「頭脳覚醒剤ゼドリン錠」と銘打たれている。研究者もまた覚せい剤の助けを借りて頭脳を明晰にさせ、論文を書いていた様が想像できる。

 これに対して、製薬会社は覚せい剤の危険性をどう捉えていたのか。 1951年 2月 15日の参議院厚生委員会には、大日本製薬の東京支店長・豊島順吉が参考人として招致された。そこで豊島は「たばこを吸つてたばこがやめられなくなると量が殖えるという程度のものとしか思っておらなかった」

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と述べている。販売側の発言ゆえ鵜呑みにはできないが、おそらく世間の認識もこれに近いものだったのだろう。未熟な青少年の使用は禁止すべきだが、分別ある大人が「適度」「適正」に用いれば中毒に陥ることはないと高をくくっていた。しかし、「適度」「適正」の使用は、上記の芸人や作家の事例からしてもほぼ不可能であった。


このように、摂取することによって「頭脳を明晰にさせ」るつもりが、
精神病になって身を滅ぼしてしまうのが覚せい剤なのですね。


新型コロナワクチンも同じです。
免疫をつけようと新型コロナワクチンを接種しても、
効果は直後にちょっと効いたような気がするだけ。
結局は免疫が抑制されて余計に病気にかかりやすくなります。


新型コロナワクチンの接種が新型コロナを防ぐというのは、
覚せい剤摂取で頭がよくなると言うようなもんです。


外国では、もう4回目の注射を打たれた人たちがいますね。
これ依存症ですよ。
ますます効かなく、打つ間隔は短くなります。


日本の首相が1日に100万回打てと言うなんて、とんでもない話。
気違い国家ですね。
でも過去に覚せい剤を「国策薬」として創薬、
前線で強制的に使用したのが国家ですからね。
「勤労動員の生徒に限らず、軍需工場の労働者や徴用エ員にも眠気覚ましとして」
配布しましたしね。


それに、過去に覚せい剤を
『「疲労感防止、睡気除去、気力昂揚」などの効能書を以つて大きく宜伝し、
在庫品の市場への放出を急いだ』のが製薬会社ですしね。


日本の政府・製薬会社でも外国の政府・製薬会社でも同じでしょう。
こんな国や製薬会社を信用しちゃだめです。


みなさん、新型コロナワクチンを子供に接種するのは、絶対にやめて下さい。
「ダメ。ゼッタイ。」ですよ。
もちろん、みなさん自身にもです。


それでは、国や製薬会社に騙されずに、元気にお過ごしください。
ではまた。